沿革

西浜町にあった徳浄寺
西浜町にあった徳浄寺

 浄土真宗本願寺派・徳浄寺は、慶長4年(1599)に開基・智観が、本願寺第12代・准如法主の直弟子となり渡辺筋に聞法の道場として堂宇を建立したのがはじまりです。渡辺筋とは、現在の本願寺津村別院と真宗大谷派難波別院の裏にある筋で、両別院の間の区画に建てられていたと推定されます。

 その後、宝永3年(1706)に西浜町に移転。文政元年(1818)には火災のためすべてが焼き尽くされてしまいましたが、同5年(1822)に第6代・順了が再建を果たしています。

 昭和8年には眞澄が門信徒の要望により本願寺の特命を受け、東洋大学ならびに日本大学の教職を辞して第14代住職となりました。仏教学者であった眞澄は『大正新脩大蔵経』の編者として名を残しています。

 昭和20年3月13日深夜、大阪大空襲の戦火によって全焼。本尊・阿弥陀如来木像はかろうじて難を逃れることができましたが、本堂や庫裏、鐘楼、太鼓楼、二尊堂、土蔵、その他十余からなる建築物、内部の諸道具全部が消失してしまいました。

 戦後の昭和21年、阿倍野区昭和町の門徒宅に間借りして再出発。同22年には、西成区長橋の焼け残りの建物を買い取り、修理改造して寺務を執り行いました。昭和28年に現在の敷津の地に移転し、昭和36年に本堂が再建され現在に至っています。